nanoZen
nanoZen 001
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nanoZen 002
"Ensoh" 235 x 285mm 個人蔵 |
nanoZen 082 個人蔵 |
nanoZen 083 280 x 135mm |
nanoZen 084 228 x 135mm |
nanoZen 085 "新円相" 210 x 280mm |
こんな絵画を、私は見たことがなかった。/eMico(学芸員)
否、絵画(え)と言ってよいのかどうかも、ほんとうのところはわからない。額縁をまとっているその姿は、よく見かける絵画作品のようなのだけれど。 nanoZen、モノトーンのそれは、ボールペンで描かれているのだと聞かされた。どこにでも売っている大量生産品のボールペン。それから、アーティスト仕様の特別なものではなく、見慣れた柔らかい画用紙。これは小さな極微細の点を打って描いたと、JINMO氏は言った。シンプルな画材に制作方法に、nanoZenの由来となっている小さな点が、髪の毛や時にはそれよりも細かいのだということを聞いても、それが何なのか、全くピンとこなかった。 とにかくnanoZen は、私の引き出しのどこにもおさまらない、全く未知のものとの遭遇だったということに気付き、やっと冒頭の言葉にたどり着いたのは、nanoZenに出会って半年ほども後のことだ。 それでも私が、nanoZenに強く引きつけられたのは、オートマティスムによるその制作スタイルだった。JINMO氏は、異言(Glossolalia)に近いものだ、とも言う。 オートマティスムによる制作では、制作者の意図を精神的にも身体的にもできるだけ排除する。例えば絵画の場合、その結果として出現するイメージをオートマティスムの絵画と呼ぶ。通常の絵画制作と違って、モチーフを設定したり、絵画を完成させることを目的とはしない。そうすることで、無意識の領域へと自分を開き、理性によっていつもは隠されている、世界の別の側面を覗こうという試みは、シュルレアリスムの代表的な方法論の一つでもあった。 シュルレアリスムにおけるオートマティスムの実践者、画家のアンドレ・マッソンを発見して以来、オートマティスムによる制作は、私が最も興味を持っているテーマの一つだ。 オートマティスムを、作家のアクションの側面、とりわけ身体との関わりからとらえることを手がかりにしていた私は、卓越したギター奏者としてのポジションから見られることの多いJINMO氏が、書の世界にも親しいこと、そして彼の書くことへの、身体感覚の並々ならぬ繊細に研ぎすまされた感性を、取材を重ねるうち目の当たりにし、nanoZen の世界に引き込まれていった。 彼の言うところの、音の側面、[SonicArt] に対する、ビジュアルの側面 [OpticArt] の 爆墨、GaV、nanoZen に触れ、その制作スタイルを観察する中で、JINMO氏が書家として、熟達の域にいる人だと知ることになる。筆先の残心、作品の隅々にまで張り巡らされている気配り、時間的勢いを表現として昇華させる技量や、空間を把握するバランス感覚の鋭敏さ、等々、オートマティスムについてはじめた取材だったけれど、一番の収穫は、彼がギタリストとしてだけではなく、書く人 としても常人の域を超えたセンスと身体感覚の持ち主であると、発見したことだった。奏者と書家の両者の共演は、ギター演奏と爆墨を同時に行うJINMO氏の高度なパフォーマンスとしても、すでに多くのファンの知るところである。 JINMO氏は、突然書き始めた、と言うけれど、彼の中には既に十分な土壌が存在していて、その中に眠っていた nanoZen へと開花する種は、無意図的にも予め準備されていたものだろうということを確信している。 そして私は、歓喜する。つまり、、ビジュアルのアーティストとしてのJINMO氏の出現は、画家であったマッソンのオートマティスムと同様に、制作スタイルの探求における、道筋の一つの変容としても、nanoZen を読み解くことができるかもしれないという、暗闇に差す一筋の光のようだった。nanoZen は、オートマティスムの、現代における、瑞々しい、生きた糸口なのかもしれないと。 ところで、nanoZen を見たことの無い、全く新しいものだと感じたきっかけは、画家は、そもそも見えない粒をつかって絵をかこうなんて思わないんじゃないだろうか、という小さな疑問だった。画家は、目で見るために絵を描く。画家たちにとっての最小単位は目で捉えられる光の粒だ。 JINMO氏の nanZen は 顕微鏡でなければみえない、不可視の点を長時間打ち続けた痕跡。その制作過程もまた、時間軸の中において、常に直進しながら身体感覚の限界を更新してゆく、一過性のものだ。 一見、絵画の姿としても捉えることができるけれど、まるで日の光によって偶然に落ちた影の優美さのように実態はない。彼の書く人としての技の特異性により、絵画的にも魅力を持つ姿に昇華されてしまったものが nanoZen ではないだろうか。 それは、ほんとうに全く正しい意味での、オートマティスムなのかもしれない。このところは、もうしばらく考察してみたい興味深いところである。 JINMO氏は、芥川とピカソに最も影響を受けたと言い、岡本太郎や大野一雄ら、その多岐にわたる交遊の中でも、彼の表現の根本となる哲学は育まれていったのだと、想像を膨らませている。彼の、瞬間瞬間に繰り出される前撃は、nanoZenを構成している小さな点のひとつひとつであり、点を布置するオートマティスムのアクションが産み落とす影は、その軌跡のようにもおもう。 その影はJINMO氏の記憶の投影であると同時に、世界の記憶の投影でもあるのだろう。かつて、マッソンもそう受け止めていたように、オートマティスムは世界と作家を繋げる扉ではなかっただろうか。その扉から作家によって導き出されたものを、わたしたちは作品として受け取ってきた。 nanoZen は、その表出の一つである。 けれども、JINMO氏のアートの独自性の根底を成すのは、つきぬけて、あっけらかんと無邪気で天心爛漫な、森羅万象への全肯定が絶えずに讃えられていることだろう。彼の表現は一貫して「すくすく、のびのび、にこにこ、けざやかに」の顕現であり、そんな、無尽蔵のエネルギーの放出が誰も見たことも無い新しいものをこの世界に出現させ、観客を魅了し、わくわくさせたり、元気づけたりしている。 そして、既存のものに埋め尽くされた境界を裂き、常に未知との出会いを最高のシチュエーションで届けてくれるのだ。
“書道”の誕生期の、その原初的意味合いとは、データを伝達する為のメディアに過ぎなかったはずの文字が、そこに乗せられたデータのみならず、文字そのものの造形、書く者の心象の反射として、“抽象美”を見いだされたという、大きなパラダイム・シフトであった。 “nanoZen”は「書く者の心象の反射」という原初的な書の持っていた“現象”である。 作品に対峙し、観る者の視覚の深度によって、どの辺りのディテールまで認識できるのかは常に変化し、nanoZenは様々な様相を呈しながら、そして鑑賞者自身の"心象の反射"として動き始めるのである。
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『 「私が一番好きな作品なの。これとならずっと生活を共にしたいの。」と、キャロリーヌ・リー女史(死ぬまでピカソ達が出展し続けたサロン・ド・メの名誉会長、前会長)は私に言った。私の作品が、"第30回フィナール国際美術展"で受賞した。 http://twitpic.com/2rqtko 』 【JINMOによる2010年9月25日のTwitterへの記載から】
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