『“美は痙攣的なものだろう、それ以外にはないだろう”と、アンドレ・ブルトンは1928年の著書“ナジャ”で明言した。この痙攣とは、原文では不随意な肉体の動きを表す医学用語としての、“CONVULSIVE(痙攣)”が用いられている。ここに、私はブルトンが用いていた“オートマティズム”との関連を明確に感じるし、私に於いての“グロッソラリア”との相似を感じざるを得ない。』(JINMO)
JINMOのギター独奏時の特徴的スタイルのひとつに、高速複雑で極微細な即興があります。
これをJINMOはグロッソラリア系と呼称しています。
グロッソラリアとは“異言”と訳されるキリスト教用語で、祈りの熱情が極限的になった時、本人の意識から切り離されたように舌が高速で動きだし、未知の言語的発生を猛烈におこなってしまう状態を指します。
本作“Plectics Tap”も典型的なグロッソラリア系表現と言え、ここでは総ての音が両手によるタッピングで奏でられています。
両手の10本の指が、それぞれに独立した意思を持って、能弁に語り始めたような複雑な音です。
音楽的な時間認識に於いては、律動についても、単位時間内での周波数の変化や合成の仕方についても、そこに“単純さ”と“複雑さ”が相反するものではなく、未分化に併存しているとJINMOは考えています。
乱暴に言ってしまうなら、非常に単純に聴こえる表現でもミクロにおいては、非常に複雑なものの絡み合うような複合体であったり、逆に非常に複雑に聴こえる表現でも俯瞰するなら、非常に大きく単純なものの一部であったりという事です。
JINMOはこれをよく、大河の流れや、星雲の様子、海岸線の状態などで例えて説明しています。
この考えが、複雑系研究で有名なサンタフェ研究所のひとりマレー・ゲルマン博士の概念“プレクティクス”に近似しているため、JINMOは好んでこの単語を使います。
プレクティクスとは“複雑”と“単純”の意味を持つラテン語を合成したゲルマン博士による造語です。
このプレクティクスの概念が、グロッソラリアの引き起こす表現を説明するのに不可欠であり、表現の手法として両手タッピングが用いられていることから、このアルバム・タイトル“Plectics Tap”があるのでしょう。
またグロッソラリアは人為的意識的な表現から距離を置くものであり、1920年代にアンドレ・ブルトンらシュールリアリスト達が、新たな芸術運動のひとつとして実践していた“オートマティスム”の、純化された本来的姿であるともJINMOは捉えています。
冒頭のJINMOの言葉は、そのブルトンが“美”を語るにおいて、不随意な肉体の動き、“痙攣”を持ち出したのを受け、本作での表現との関連から述べたものです。
全20曲、70分以上に及ぶ演奏は、総てスタジオ・ライブ・レコーディングされたものです。
使用機材は、ギターがJinmoid、エフェクターがCranetortoiseのGC-1(コンプレッサー)、ギターアンプがZT-AmpのLunchbox、そしてGeorge L’sのケーブルが2本、…これだけです。
最大120dBの強烈な爆音でおこなわれた爆奏は、ステレオ・マイクによって収録されました。
総ての音は、その時、演奏されたままに記録され、一切、編集や加工はされていません。
言わば、ドキュメンタリー作品のようなものです。
聴き進む内に、非常に複雑に思える音のひとつひとつは、言わば波の雫のひとつひとつであり、俯瞰してそこに渺茫たる太洋が静かに在るのにやがて気づくでしょう。
ジャケットは、Mixtribe氏による写真です。
Jinmoidを兵器のように構え、こちらを見据える姿が、力強く美しい構図になっています。
一見シンプルで美しいJinmoid自体も、こうして改めて見ると、指板を除く総ての表面が、複雑な3D曲面で構成されるプレクティクス・オブジェであったことに気づきます。
ギター愛好家の方々にはもちろん、現代音楽、先端的テクノ、実験音楽をお好きな方々にもお薦めのアルバムです。
前作”Wolfbeats 4”から僅かに7日。
通算第141作めのソロ・アルバム(Avant-attaqueからの第122作め)、リリースです。
もちろん、Apple ロスレス 44.1kHz 16bitの高音質です。
(Avant-attaque:HARI)